踊るたぬきのサンバ・ノ・ぺ

踊らされて生きているたぬきのお話

やり抜く力

初めてこれを読んだのは2016年くらいだっただろうか、もしくはもっと後?

仕事で思い通りに結果を出せない自分にカリカリしていた頃、読んだ本だった。

やり抜く力はGRITと定義されていた。

G...Guts(ガッツ)

R...Resilience(レジリエンス)

I...Initiative(イニシアチブ)

T...Tenacity(テナシティー)

 

あの頃、私はresilienceとinitiativeがあまりなく、そういう自分に自信をなくして、gutsがなくなっていた。元々の性質や育ちで私が持ち合わせていたのはtenacity。

地味にぼちぼちやり続ける粘り強さだけ。

それがあればたいていのことは、いつかどうにかなるんだ、と気がついてからは、gutsが戻り、resilienceも身についた気がする。initiativeはなかなか高度なスキルというか性質で、自分で課題を見つけて目標を立てる自発性を意味するので、問題を同定する力と、それに対する直接的な対処が何か見極める力、それを適切な目標にブレイクダウンする力が必要になるので、私はこれらのやり抜く力の中では一番抽象度が高い高位の能力だと思っている。一番やりたくない嫌なことを見つけてそれに向き合うスキルと言い換えてもいいと思う。頭と共に自分への厳しさもいると思う。なので、今私には、GRITのGRTまではどうにかできても、Iが足りない。

 

時間を作ってそれをどうするか考えていこうと思う。

 

けれど世の中の人はみんな、この4つのうち1つ以上の力を必ず持ち合わせていて、きちんと発揮できている人が成功しているのだと思う。私もぜひ見習いたいものだ。

 

疲労という誇り

昨日はチームのダンサーコンテストでした。

うちのサンバチームのダンサーが一年の成果を発表し、それを外部からお招きした審査員も含めて審査していただき、点数や順位もつけられる。どこのチームもこれに類するイベントはやっているはずですが、ダンサーにとってなかなかシビアなイベントです。

 

うちのチームの場合は、スローアップ(ダンサー登場の時に演奏されることの多い打楽器メイン(うちは弦も入る)の歌なし楽器演奏。ゆっくりテンポの間にダンサーが登場、ご挨拶をし、軽く踊る。その後一回音にブレイクが入ってテンポが上がり、ダンサーが速いサンバノペや他のテクニカルなステップワークなどのスキルを見せる…んー、まぁ、ダンサーのご紹介タイムの音って感じかな。少なくとも日本ではそういうふうに使われているような…。ブラジルではあまり使わないらしい。ブラジルで踊った経験の長いお方が、スローアップをpartido alto e rasgadoと呼んでいるのは聞いた)の音源で踊った後、今年のリオのカーニバルの曲から選ばれた曲を1コーラスに編集した課題曲で踊り、サンバノペ、課題曲、表現力等の観点から審査されるというもの。スローアップも課題曲も2人組で踊ります。1人が1回目のスローアップで出てきて踊り、2人目が2回目のスローアップで出てきて踊る。2人揃ったところで、課題曲が流れる。それを2人がそれぞれ踊るという感じです。

 

はっきり言って、ダンサーはみんな出たくないんですよ、このイベント。楽しく踊ってるのに評価されるのとか嫌じゃないですか。

ハイーニャ・ダ・バテリアを目指す人は別ですが。

ハイーニャ(rainha) とは女王のことです。ダは英語で言うならofに近い意味だと思います。

Bateriaはbattery 即ち、打楽器隊のことですね。rainha da bateria とはこれ即ち、バテリアの女王。ダンス、人柄、容姿がチーム、特にバテリアに愛された選び抜かれし者だけが就くことのできる名誉なポジションなのです。その名の通り、パレードにおいてバテリアの前を先導するようにただ1人で立ち、Rainha da Bateriaであることが示された襷をかけ、踊ることのできる、サンバダンサーにとって究極の花形ポジションです。

 

でも、私は自分の今の踊りの腕やチームへの貢献度、器の小ささでハイーニャになれるとは思っていないし、目指してもいない。

 

私が考えたことはただ、「全力で、悔いのない踊りをしよう」だけ。

曲の大事なキメや音のブレイクを逃して微妙な踊り方をしたら音を大事にできなかったと後悔するだろうし、曲のクライマックスでサンバノペをしっかり踏めなくてスタミナがなくてへばったりもたもたしたら、全力で踊れなかったことをきっと後悔する。

 

だからただ、力まず全力で踊ること、曲と音をちゃんと聴くこと、そして聴き取った音で動きを作ることだけを意識して練習した。

お菓子を食べるのをやめ、タンパク質を摂り、自主練の時は必ず腹筋とお尻の筋トレをした。筋トレと食事はダンサーコンテストに向けて始めたことだけれども、

それとは別に週2日のレッスンと週1日のエンサイオを抜いても、週2日は必ず自主練を入れると言う生活をもう2月からずっと続けてきている。

しんどくても、熱出したりとかしない限り自主練には必ず行くようにしていた。例え忙しくてスタジオが予約できない日も家で練習した。今やれるベストを尽くした。

 

当日はあまりコンディションが良くなくて、自分では本当にノペがイケてない気がした。

でも、その時の私の全力を出すしかない、と思ったから本番もそれで固くなったりはしなかった。

 

観ていた友達に「ビックリした、別人かと思った。あなたそんなに踊れたんだね」と言われた。

 

結果は人に委ねるものなので、私のできることの埒外です。だから、どうだっていい。

でも観てた人が楽しんでくれたなら、私はそれだけで十分です。

なので、今回の出来は自分ではわからないけれども、一点の悔いもなく努力できた。

そしてそれを余すことなく本番に注げたという意味で、いつも本番の後には上手くやれなくて落ち込むことの多い私には珍しく満足できました。

ただし、くったくたで、昨日はさっさと寝たのに昨日の疲労を引きずり朝から仕事になりませんwww!これも名誉の疲労でしょう!

 

だからもう忘れてこの1週間はのんびり過ごします。お菓子は食べないけど、食べ物も少し縛りを緩くして楽しもうかな。

あからさまな詐欺師

Threadsにお金持ってても歯がない人は信用できないみたいなポストがあって、マジそれな、と思うエピソードが昔あったので書いてみる。

 

と言っても例によっていつもの如く、またか、と言われそうだが、私が昔若かった頃、仕事に悩んで、本当に食事もできなくなり、毎日焦燥感だけを抱えて生きていた頃の話なので、大っぴらに書く話でもなく、ブログの方に。

 

その頃は夏で、地球の反対側のブラジルは冬、多分ブラジルはサンバの閑散期だったんじゃないかと思う。もう7-8年前のことなので記憶が定かではないが、ブラジルはそんな時期だからか、カポエイラのチームの人が呼んだブラジルの人のサンバのワークショップが開催された時だったと思う。今ほどzoomでのオンラインレッスンなんかも盛んではなくて、本場の人のワークショップに参加出来る機会もそうないので、私は体調不良を押して参加していた。休職する直前、仕事もサンバも上手く行かなくてボロボロだった時期だ。

 

そうは言っても激病みだった時期だから、体調不良がひどすぎて出かける直前まで起きられず、無理やりシャワーを浴びてノーメイクで、髪ボサボサ。箪笥の中から適当に引っ張り出したコーディネートのチグハグな見窄らしいヨレヨレの服で出かけていた。サンバのレッスンに見窄らしい格好で行ってはいけないというベテランパシスタのお姉さんたちはたくさんいるが、その時の体調もメンタルも激悪な私にそんな余裕はなかったことはご理解いただきたい。決してサンバを侮辱したかったわけではない。それでも踊れるようになりたかったのだ。

 

ワークショップの内容自体はほとんど覚えていないのだが、その帰り、どういうわけか、昼間の渋谷駅を通った。何かの路線から乗り換えて副都心線の乗り場に行きたかったと思う(当時茗荷谷に住んでいたので、渋谷乗り換えだと副都心線で池袋まで行って池袋で丸ノ内線に乗り換えていた)。

 

渋谷駅はいつでも人が多くて、私は本当に好きじゃないのだけれど、その日は、その往来の中でネイビーのシックなスーツを着た50代くらいの男性が、わざわざ往来の邪魔になるような場所に立って、人の顔をいちいち覗き込んでいた。何だか気味が悪くて、遠くからその人を見つけた私は少しその人から離れたところから通り過ぎようとした。

が、私がその人に近づいた瞬間、彼は私の前に立ちはだかって、

「こんにちは。私、とあるNPO法人の職員をしてまして決して怪しい者じゃないんです、今少しお時間よろしいですか?」とにっこり笑ってきた。

若かったらすごくイケメンだっただろう一点の曇りもない笑みだった(その当時でさえ、俳優のように見える顔立ちだった)。

ところがその人の歯は、笑うと見える前歯全てに金属の板(?)がはまっているのが見えた。ポーセリンか自分の歯か、白い部分はあるが、全ての歯に金属が入っていて、治した痕跡があるのだ。しかも全部きんきらきん…。

 

それを見た途端、理由はわからないが言いようもない不気味さと恐怖に襲われて、

「いや今急いでるんで!」

と半ばその人を押し退けるようにして慌ててその場を離れた。

ただでさえワークショップの帰り、体調が良くないところに疲労していて、さらに見窄らしい服装でノーメイクで平気で渋谷の駅を歩いてしまっていた私…。怪しい人に声かけられるのは当然だと思う。

 

でも、そんなどう見たって怪しい出立ちの人に「決して怪しい者じゃありません」って言われて笑いかけられただけでついていくように見えてしまったというのは、病んでいたとはいえみくびられたものだな、と思う。

だから見た目を整えるのは大事だという人の言うこともわかる。

 

ただ、病んではいても私の知性はそこまで死んでいなかったし、体調不良なのにサンバを踊りに行くほど無駄にエネルギッシュな迷惑メンヘラだったことをあのきんきら金歯詐欺師ジジイに気取られなかったのは、本当に本当にラッキーだった。

 

そうは言っても、もっとメンタルが弱っていたら絶対詐欺だろとは思っても、断るのがしんどくてただ着いて行き、言われるがままにお金払っていた可能性だってある。メンタルのエネルギー不足は恐ろしいほど思考力と行動力、Noと言う力を奪う。

 

まぁ、そもそもサンバのワークショップじゃなきゃ華やかな渋谷になんか出かける気にもならなかっただろう。

 

そしてそのきんきら金歯詐欺師ジジイも金歯以外は年齢にも背格好にも見合った落ち着いた服装をしていて、素晴らしく温かな笑顔を作れる人だった。だから私はあまり今でも人のキラキラの笑顔を信用しないと言うのもあるのかもしれない。

 

とにかく、何か一つでも、わずかにでも、その時の私の生きる力を上回る悪条件があったら今どうなっていたかわからない、私にとっては怖すぎる出来事だった。だから私はめちゃくちゃ歯を磨くし、あまりにも口腔の衛生に無頓着な人は少し警戒する。臭いとか汚いとかバカにしてのことではないのだ。

 

一生付き合う物にはその使い方でその人の人間性が出る。持ち物よりも何よりも。

フレーヴォとヤクルトと燕の話

最近、フレーヴォのレッスンを受けていて思ったのですが、傘を上げ下げ(あんまりしないし、フレーヴォだと傘の模様をお客さんに見せるように動かすけど)してたら、なんかこれ、ヤクルトスワローズの応援みたいだな、と。

 

私は野球ならヤクルトのファンなのです。

 

そんで、ヤクルトってスワローズっていうじゃないですか、キャラクターもつば九郎くんじゃないですか、マスコットが燕なんですよね。

私、燕が好きなのですが、最近春になっても燕を見かけなくなった気がします。これも温暖化のせいでしょうか。

 

swallowは英語で動詞だと「飲み込む」、名詞だと上に書いたように燕のことです。

 

ところが…

 

医療用語では、飲み込むことを「嚥下」と言います。嚥下の嚥、よく見てください、口へんに燕って書くんです。

 

英語と同じ!

 

語源が一緒(雛が口ぱかっと開けて餌を待って何か口に入れられたら丸呑みにするのに由来するとか)なのかな?とか思ったりはしますが調べてなく。

茶もteaも発音を辿ると語源は一緒らしいしある程度あり得そうだなとは思うんですが、swallowは意味が同じというなかなか稀有な例。

仏壇に水や花を備える閼伽棚の閼伽(あか)は、Aqua(水)と同じ語源の古代サンスクリット語に由来するとか何とかも聞くし、swallowには絶対何かあるな!と思いつつ、ずっと調べていないですが、きっと面白いはず!

 

そして絶対関係ないけどヤクルトのファンの人たちの傘の応援にフレーヴォが何か関係していたら面白いな、こちらも調べてみようかな、と思う私です。

 

ありのままとは

https://www.threads.net/@mar345__ch/post/C5a0zuNSL6O/?xmt=AQGza4JOuYZmlLnl9EA_noOMH2dmCzr2zEw1mNMgd4CPWw

 

Threadsにこんな投稿を見かけた。

うーん、ま、後半の自分ファーストはいいんじゃない?とは思う(自分勝手にならないようには自分を戒めないと、と思うけれども!)

 

ただ、ありのままの取り違えは私も違和感を感じる。

 

ありのままでいいんだとしたら多分人間5歳から精神年齢が大人にならないと思う。

 

ありのままの人間なんてわがままで幼稚で自分に甘く怠惰なので、それでいいわけがない。それを覆い隠すように努力を重ねて人は人になっているわけで(荀子性悪説ですね)。

 

ありのままの、現状の、何もしてない自分でいいやー、って認めるのは楽だし、今の自分じゃダメダメだ、全然足りないって追い込み続けるのは時に本当にしんどいし、そんなこと考えないですめば考えたくもない。

 

だけど、身近な大事な人達と穏やかで幸せな人間関係を築きたいとか、達成したい目標があるとか成し遂げたい結果があるとかで、そのために自分の考え方とか行動を変えなきゃいけなかったら、何か具体的に行動しないといけないし今のままでいいわけがないし、今より何かをよくするか何かを変えないと、達成はありえないわけで。

 

でも、達成したいことなんて何もないから、楽に生きよう、も一つの在り方だと思う。悪いことじゃない。それがビリギャルの小林さやかさんの言ってた、「みんなが頑張るべきとも思ってない。むしろ私はできればそんなに頑張らないで生きていきたい」ってやつなのかな、と。

 

アナ雪が物語として素晴らしいのは、エルサが愛する妹や民を守るために、過去のトラウマを乗り越えて、自分の殻を打ち破って、在り方を変えて戦ったからなのでは?そして彼女はアレンデールの女王になったのだし(アナ雪2ではアナが女王になったけど)、ありのままってそんなに素敵なことではないと思う。

 

特に自分が自分より大切に思う人たちのために今の自分を捨てて、蛹を脱いだ蝶のように美しく変身するその姿が、ありのままより美しいのではないの?と思う。

 

私は自分のためにしか生きてないけど、楽じゃない。でも、現状維持はしたくない(それは後退と同じだから)。思春期の乙女じゃあるまいし、自分という人間に過度な期待は全然してないし、まぁ、私はこの程度の人間だと思っているけど、私は私に努力と改善をし続けることを期待している。

ありのままの私なんてうんこ以下なので、一生をかけてどううんこ以下な私じゃなくなるのか、自分に見せてほしいと思っている。

 

ただ、上にもちらっと書いたように、人にそれを強要はしない。努力しなくてもすでに立派な人もいる(悔しいけどそれは才能とか器とかいうものなので私は持ち合わせていない)し、そうじゃなくても、努力する気があるかないかで人をバカにしたりはしない。価値観はいろいろだから。

 

ただ、自分にはうんこ以下のままに甘んじないよう必死で努力する人間であることを期待する、というだけ。努力を努力と思わないで、軽やかに楽しめる人間になりたいけれど、意識して歯を食いしばらないといけない局面も人生にはあると思う。

 

ありのままより、常に進化する自分で。

 

でもそれとは別に、自分を偽るのはダメだと思う。これに関しては上手く言えないんだけど、合わない服に身を押し込むのは痛いだけ。

服を破く可能性だってあるし、周りに嫌な思いをさせるだけ。

自分を実際の能力や人格よりもよく見せようとしたり、進化する前の自分なのにすでに進化し終わった自分であるかのように見せるのは、みっともない。まぁ、でも違う自分を演じないといけない時もあるから一概に全部ダメとも言えないか。

 

常に、微分するように瞬間瞬間の時点の自分は受け入れつつ、少しずつグラフの傾きが上がっていってることを確認しないといけない感じかな、と思う。

 

ダメな自分と、決別したい!