踊るたぬきのサンバ・ノ・ぺ

踊らされて生きているたぬきのお話

わかってほしい

わかってほしいことほど人には言えないことなんだな、と。

私、本当にイタい人間で残念な人間なんだな。

三島由紀夫の「やたらに人に弱味をさらけ出す人間のことを私は躊躇なく「無礼者」と呼びます。
それは社会的無礼であって、われわれは自分の弱さをいやがる気持ちから人の長所をみとめるのに、人も同じように弱いということを証明してくれるのは、無礼千万なのであります。」

という言葉がよく、Xなんかで流れてくる。

なんかそういうのを見ると、私をいじめたいの?って言いたくなる。すごく殴られてる気分になる。

弱みを言葉にして晒さないと、私生きていられない。死んじまう。

わかってほしい。無礼でもね。

 

P.S ただそれに続く三島由紀夫の言葉は私も大賛成なんですよ。

「そればかりではありません。
どんなに醜悪であろうと、自分の真実の姿を告白して、それによって真実の姿をみとめてもらい、あわよくば真実の姿のままで愛してもらおうなどと考えるのは、甘い考えで、人生をなめてかかった考えです。」

本当その通り。

麻疹は怖い

公衆衛生を齧った人間はすぐに世の中のトンデモ医学と戦いたくなるけど、最も我らが忌み嫌うのは反ワクチン派。

第二次世界大戦後、世界の(特に先進各国の)平均寿命が一気に伸びたのは5歳未満児死亡率(U5MR)が著しく下がったから。平均寿命の値はその計算方法上生涯の早い段階での死亡に大きく左右される。5歳未満の小さな子どもたちが死ななくなったことが平均寿命の延伸の大きな原因なのだ。それに寄与したのは栄養状態の改善、医療の改善もさることながら、何と言っても予防接種の普及による感染症での死亡の減少によるところが大きい。

BCGで結核が、天然痘ワクチンで天然痘が、麻疹ワクチンで麻疹が予防されたことでこれら感染症で命を落とす人が本当に減った。

 

麻疹というのはすごく感染力の強いウイルスで、麻疹に対する免疫のない集団に感染者が1人いた時、その1人から12-18人に感染すると言われている(これがインフルエンザの場合せいぜい1人)。そういう病気だから、感染の伝播を止めるためには、ワクチン接種によって、集団の95%以上が麻疹に対する免疫を持つ必要がある。でも、中には病気や体質でどうしてもワクチンを打てない人だっているわけで。赤ちゃんだって1歳までは接種できないけど、1歳未満だって麻疹には罹る。そういう人達を守るためにも打てる人はみんなワクチンを打ってほしい。今はコロナ禍でなかなか病院に行けず接種機会を逃した人達がいたために人流が戻り始めた今、いろいろな場所で麻疹が流行り始めている。麻疹はマジで今でも死ぬ病気です。マジで死ぬ。肺炎にも脳炎にもなる。他は打たなくてもせめて麻疹のワクチンは打って。

 

何十年と昔は、近所に麻疹に罹った子がいるとわざわざ同じ部屋で過ごして移してもらう、なんてことをしていたなんて話を聞くことが度々あるけれど。

 

でも麻疹は本当に怖い病気だ。そんなことは本当にやめてほしい。

今でも、日本でさえ、麻疹は1000人に1人は死ぬ病気なのだから。この日本で1000人に1人だよ?10万人に1人じゃないんだよ、1000人に1人。入院する確率もめちゃくちゃ高い(←ちゃんと調べろw)

 

そして麻疹が怖いのは、治ったと思った数年後にSSPE(亜急性硬化性全脳炎)に発展する可能性があること。1歳未満の乳児や、免疫抑制状態で麻疹に初感染した例で起こることが多いと言われている。これは麻疹のウイルスが中枢神経系に持続感染することで起こる病気(人間の身体の中で例外的に免疫系の猛攻を逃れられる場所が中枢神経系だったりする。だから追い込まれたウイルスが中枢神経系に感染するんだな…)。最初は賢く運動も活発だった子供が、癇癪を起こすようになったりぼーっとするようになったりして、どうしたのかと思っていると、知的障害や運動障害を呈し始め、発症から6-9ヶ月で死亡の転帰を辿るというとても予後の悪い病態。最後は会話もできなくて寝たきりになってしまう。子どもがこんな目に遭ったら、親は辛すぎない?

ちなみにこのSSPEは生ワクチン接種例では確認されていない。それだけでも麻疹のワクチンは打っとく理由にならない?

 

それから麻疹脳炎はとても怖い。麻疹によって脳炎を起こすことがあるけれど、こうなると3分の1は死亡、3分の1は後遺症を残し、後遺症なき生存は3分の1のみ。

 

私は人の不安につけ込んで脅して行動を変えようとするのは好きじゃないけど、マジで麻疹にはビビってほしい。マジでバイオテロレベルのウイルスだから。

 

でも、そんなふうに怖い麻疹でも、2回きちんと予防接種を受ければ予防できる。

 

コロナのレベルじゃなくマジでヤバい麻疹を予防するために、本当に打って、麻疹の予防接種。

 

そして私のいい加減な知識を語るよりも、国立感染症研究所が一般の人間向けにすごくわかりやすいFAQを公開しているので、ぜひ観てみてほしい。↓

https://www.niid.go.jp/niid/ja/diseases/ma/measles/221-infectious-diseases/disease-based/%20ma/measles/549-measles-qa.html#Q1-05

インプットとアウトプット

最近私の書く文章は面白くない。

なぜかってそれは、インプットの量が少ないから。読んだ文章、得た知識、した経験にある定数を掛けることでアウトプットが決まる気がするけれども、仕事、スタジオで練習、またはレッスン、家帰って縫い物か読書、ちょびっと家事、くらいしかしてない最近の私の書く文章は本当にくだらないし、思考も深まらないし、言葉も深まらない。

そんなだから私という人間も魅力がないのがよくわかる。

 

だからと言って、インプットを増やそうとジタバタいろんなことに手を出すと、途中で疲れてみんな中途半端に空回りしてしまって、余計に落ち込んで投稿を消すはめになる。

 

別に死ぬほど賢くならなくていいから、強くて優しくて面白くて明るい人になりたいね。

賢さはレジリエンスのある性格についてくる気がする。そういう人間になれたら私の書く文章もまた何か変わる気がするな。

ひよこがほしい

これは以前のエントリーにちらっと書いた私が子どもの頃の武勇伝の一つ。

私は子どもの頃から動物が好きで、犬や猫や小鳥みたいなふわふわした生き物に目がなかった。

1歳になる前に歩いていて、歩けるようになったら落ち着きなくちょこまか動き、子どものくせに筋骨隆々としていた私は1歳半になるといたずらがひどくなり、小さな台風か竜巻のように、私の通った跡をトレースできるくらいいろんなものをめちゃくちゃにしていた。

そんな私が大人しいのは、夕飯の支度をしている間、母がテレビで子供番組を見せている時。

ある時、いつにも増して私が真剣にテレビを観ているので、母が怪訝に思って見てみるとそれはセサミストリートだったらしい。卵からにわとりの雛が孵り、やがて羽根が乾いてふわふわのひよこになる、という映像は母が見るとグロテスクで気持ち悪かったらしいのだが、子どもはわかってないからこそ興味を持って見るのかも?と思ったらしい。

果たして次の日に問題は起こった。

短い脚で家中をぺたぺたと歩き回る私は冷蔵庫の前にやってきた。飲み物や卵のトレイがある冷蔵室は今の冷蔵庫と違い、一番下の方にあって縦に開いていた古い冷蔵庫。そしてバッタン!と閉まる扉ではなく、引っ張り出すと中から飲み物が入ったカゴのような物が出てくる引き出しのような冷蔵室だった。下が飲み物のスペース、上が卵のトレイ。私はその、飲み物と卵の冷蔵室を引っ張って開けた。1歳が冷蔵庫の扉を開けるなんて相当力が必要なのでは?と思うけれどもそこは運動量が多く筋骨隆々とした赤ん坊だった私には造作もないこと、勢いよく扉を開けると、私は上の段の卵(もちろん生)に手を伸ばし、床に落として割る!そしてもう一つ、もう一つ…冷蔵庫の中にあった生卵を全部床に落として割ってしまったらしい。

私はひよこがほしくて、ひよこを探してやったのだけれども、冷蔵庫の中の卵からは割ってもひよこが出てこない(当然だ)。

しばらくの間私は母が目を離すと冷蔵庫の卵を全部取り出して割り、1パックあれば1パック全てをダメにしていたらしい。

母が買ってくる冷蔵庫の中の卵には絶対にひよこはいないといつからか気がついた私はそのいたずらをやめたけれど、床は汚れるわ、卵は全部ダメになるわで母はしばらく困り果てていたそうで。

でも1歳半ってすでに、冷蔵庫の卵とテレビで見た卵が同じものと認識し、テレビで見たように、卵の中にひよこがいるのではないかと予想し、割って確かめる、という検証のプロセスを辿ることができるのがちょっと驚き。人間の1年半の成長ってすごいね…。

 

でもきっとおバカな私は、ひよこは見つからなかったけど途中から、卵を床に落として割る、という傍迷惑ないたずらの楽しさに味を占めていたんじゃないかな、と思う。

 

赤ん坊の頃の私にはそんな衝撃エピソードが山ほどある。

落ち込む時の話

落ち込む時って、自分のことばかり考えすぎだとか、感謝が足りないとかいろいろ言われる。

 

ちょっとほっといてくれない!?

 

理由もなく落ち込むのって体調不良みたいなもんなわけよ、人のこと責めたいとかでもないし、もし人の言動を悪く取ってしまうことがあったとすれば、そんなふうに人の言動を悪い方に捉えてしまう私の気持ちの方が辛いと思わない?意思の力で気持ち変えられる程度の落ち込みならここまで落ち込んでないわけよ。

 

私、感謝が足りなくて悪かったですね。お願いだから落ち込んでるところまで足りないところを責め立ててくれるな。

 

別に優しくしてとか言わないから愚痴言わせといてくれない?あなたに感謝したら嬉しい?

 

ただ落ち込んで後ろ向きだからと言う理由で、私の性格が悪いとか嫌なやつだとか勝手な評価するな!

元気になるまで責めないでよ。

安楽死の話

患者の安楽死の希望を叶えた医者が免許を取り消され、殺人罪に問われている。

医療関係の人間には何度も再燃してくる古くて新しいテーマだと私はいつも思う。

消極的安楽死は治療の中止のことで、積極的な治療をやめて自然な死を待つ行為であって、これは患者を殺すわけではないので、罪には問われない。

積極的安楽死には許容される4要件がある。これはググればすぐ出てくる。

 

安楽死を望む患者の意思の確認、というのがいつも争点になる。重病の患者は意識がないことも多い。どうやってその意思を確認するのかは悩ましいと思うし、苦痛で憔悴しきっている時の安楽死の希望が、(安楽死の)真摯な嘱託、と言えるのかは判断が難しいと思う。上手く苦痛を取ってあげればこのままなら、最後まで生きようかな、という気になるかもしれないしね。

 

患者の意思を確認できなくて家族が意識のない患者を見ているのが辛いから、みたいな理由で安楽死させちゃったらそれは殺人だし。

 

死ぬ権利が死ぬ義務になったらいとも簡単に殺人が許容されることになっちゃう。姥捨山みたいな話になってくるとそれはやめてほしいな、と思う。

 

消極的安楽死尊厳死なのかはよくわからないけど、安楽死も全てを否定はしない。私は尊厳死くらいにさせてもらえるといいな。優しい理由で殺されるの怖いし。自分に対する決定権は最後まで自分で持ちたい。

 

それがあるかないかなんじゃないかな、姥捨山(正義の殺人)になるかどうかって。意識がない、認知症がある、意思表示ができない病状、みたいな自己決定権を行使できない人に対する安楽死はどうか行わないでほしい。それは殺人なんだと思う。死ねと言われて死にたい人っていないんじゃないだろうか。

 

ただ、生死というのは全て自分の意のままになるような簡単なものじゃない。生まれてきたことだって私達は誰もそれを望んだわけじゃない。死ぬことに対してだけそれを自分の意思の通りにしようというのは、いささか無理があるような気もする。死にたくなくても死んでしまう時は死んでしまう。死にたい時だけ好きに死ねるようにするのも不自然な気がする。

自分の意思と関係なくこの世の中に生み出されたのに、死ぬ時は自分勝手に、しかも苦しまなくて済むように死ぬのか。

なんかそれには個人的に罪悪感を感じてしまう。死を選ぶ時はその死に向けて、その後の生きる苦しみの総量と同等の苦痛を受け入れる義務がある、なんて考えてしまうのは私の考えが偏っているのかもしれない。