踊るたぬきのサンバ・ノ・ぺ

踊らされて生きているたぬきのお話

安楽死の話

患者の安楽死の希望を叶えた医者が免許を取り消され、殺人罪に問われている。

医療関係の人間には何度も再燃してくる古くて新しいテーマだと私はいつも思う。

消極的安楽死は治療の中止のことで、積極的な治療をやめて自然な死を待つ行為であって、これは患者を殺すわけではないので、罪には問われない。

積極的安楽死には許容される4要件がある。これはググればすぐ出てくる。

 

安楽死を望む患者の意思の確認、というのがいつも争点になる。重病の患者は意識がないことも多い。どうやってその意思を確認するのかは悩ましいと思うし、苦痛で憔悴しきっている時の安楽死の希望が、(安楽死の)真摯な嘱託、と言えるのかは判断が難しいと思う。上手く苦痛を取ってあげればこのままなら、最後まで生きようかな、という気になるかもしれないしね。

 

患者の意思を確認できなくて家族が意識のない患者を見ているのが辛いから、みたいな理由で安楽死させちゃったらそれは殺人だし。

 

死ぬ権利が死ぬ義務になったらいとも簡単に殺人が許容されることになっちゃう。姥捨山みたいな話になってくるとそれはやめてほしいな、と思う。

 

消極的安楽死尊厳死なのかはよくわからないけど、安楽死も全てを否定はしない。私は尊厳死くらいにさせてもらえるといいな。優しい理由で殺されるの怖いし。自分に対する決定権は最後まで自分で持ちたい。

 

それがあるかないかなんじゃないかな、姥捨山(正義の殺人)になるかどうかって。意識がない、認知症がある、意思表示ができない病状、みたいな自己決定権を行使できない人に対する安楽死はどうか行わないでほしい。それは殺人なんだと思う。死ねと言われて死にたい人っていないんじゃないだろうか。

 

ただ、生死というのは全て自分の意のままになるような簡単なものじゃない。生まれてきたことだって私達は誰もそれを望んだわけじゃない。死ぬことに対してだけそれを自分の意思の通りにしようというのは、いささか無理があるような気もする。死にたくなくても死んでしまう時は死んでしまう。死にたい時だけ好きに死ねるようにするのも不自然な気がする。

自分の意思と関係なくこの世の中に生み出されたのに、死ぬ時は自分勝手に、しかも苦しまなくて済むように死ぬのか。

なんかそれには個人的に罪悪感を感じてしまう。死を選ぶ時はその死に向けて、その後の生きる苦しみの総量と同等の苦痛を受け入れる義務がある、なんて考えてしまうのは私の考えが偏っているのかもしれない。